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「一ノ瀬志希は、失踪します」

2019/ 01/ 13
  • タグ:一ノ瀬志希 千川ちひろ 双葉杏 森久保乃々 ◆vOwUmN9Rng

  •                  
    シンデレラガールズ 目次

    1 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:10:28 ID:MH5

    ・本文中にそんな台詞はありません。

    ・志希がPと結婚して、 アイドルを引退した後のifです。

    ・地の文多め、作者の妄想過多、オリキャラもいます。

    2 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:12:58 ID:MH5

    ごお、と微かな音が木霊している。

    はるか上空で、重たい空気が引き裂かれている。


    ゆっくりと目を開けた。

    視界に入ってくるのは、限りなく透明に近いブルー。

    いつも見慣れた天井とは全く違う。

    まるで海の底だ。

    寝ている間に溺れてしまったのかな、などと考えた。

    変なくせのついた前髪をかき分け、胡乱な視線を窓の方に向ける。

    開けっ放しのカーテン。

    ぽつぽつと真っ白な雲が浮かぶ初夏の空。

    春の霞は去り、梅雨空の到来にはまだ早い青。

    いつも寝起きを迎えてくれるのはもう少し穏やかな色なのにな、と思った。

    枕元の携帯電話を掴んでその理由をすぐに察する。

    目覚ましは2時間も前に、スヌーズも終えて沈黙している。

    3 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:13:50 ID:MH5

    ふわ、と大きな欠伸を1つして、のろのろとベッドから起きあがった。

    ついこの間押し入れから出したばかりの春物の布団が、上半身からばさりと滑り落ちる。

    真っ青なカンバスに国内線がゆっくりと引いていく白線を、窓ガラス越しになぞった。

    部屋の匂いが、いつもの朝とは少し違う。

    キングサイズのベッドには、1人分の温もりしかない。

    拭った瞼が、少し潤んでいた。

    あたしの知らない間に溢れ終えていた涙液は、どうやら夜の間にあたしを窒息させるには至らなかったらしい。

    4 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:14:43 ID:MH5

    乱れた寝間着のままでベッドから下りて、リビングへ続く扉を開けた。

    部屋の電気は消えていて、遮光カーテンも閉められた室内には未だに夜がとどまり続けている。

    思い切りカーテンを開けた。

    朝の日差しがあっという間に室内を蹂躙し、窓ガラスに映ったあたしの顔が不満そうに右目を細めている。

    マンションの10階から見下ろす街は忙しなく動き回り始めていた。

    遠くで微かなクラクションの音が鳴り響いている。

    規則正しく顔色を変える信号機にあわせて四輪駆動の濁流がせき止められ、摩天楼の谷間をラッシュアワーを終えた鉄道が横切っていくのが見えていた。

                
    PICK UP!

    5 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:15:21 ID:MH5

    だらしない寝起きの格好をいつも咎める人は、今日はもう家を出て行った後のようだった。

    壁の時計が示す時刻は、一般的な社会人が出勤のタイムカードを押す時間をとうに過ぎている。

    その下のテレビ棚に置かれている写真立ては、2枚とも陽光の角度のせいで真っ白に輝いていた。

    着飾ったあたしたち2人の写真と、大勢の女の子と一緒に写った写真。

    6 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:16:20 ID:MH5

    顔も洗わずに台所に向かう。

    買い置いていた食パンは最後の1枚になっていた。

    トースターに放り込んで、マグカップにインスタントコーヒーをぶちまけたときに気が付いた。

    流しが空っぽになっていて、少し滴のついた皿が1枚、乾燥機に立てかけられている。

    朝ご飯の後の食器は、いつもあたしが洗うのに。

    ぐい、と呷ったブラックコーヒーは、喉の奥が焼け付くように苦かった。

    勢いよく何度も咽せて、おまけに涙まで出てきてしまった。

    3分経ったとトースターが告げる。

    無機質なベルの音が、静まりかえった室内にいやに大きく響きわたった。

    皿も出さずに取り出して、そのままもさもさと咀嚼する。

    なんだかとても久しぶりな、身だしなみもなにも気にしない、ただ食べるだけの朝食。

    ひとりぼっちの朝食。

    ついこの間まではなんとも思わなかったのに、今はなんだか、無性に悲しくなった。

    7 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:17:10 ID:MH5

    最後の一口を飲み込んで、パンの空き袋を捨てて、マグカップを洗う。

    冷蔵庫に貼ってある、ぐるぐるとピンク色のペンで昨日の日付に印をされたカレンダーが、なんだか責めるような目つきであたしを見下ろしている。

    洗い物を終えて、あたしは立ち尽くしてしまった。

    買い物も部屋の掃除も昨日のうちに大いにやってしまっていたから、なにをしたらいいのか分からなくなってしまった。

    今日のあたしは空っぽだ。

    家の中は怖いくらいにがらんとしていて、2人分の家具はどれもそっぽを向いてしまっている。

    8 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:17:58 ID:MH5

    ふらふらと寝室に戻って、勢いよくベッドに倒れ込む。

    もうすっかり冷えてしまった敷き布団が、火照ったあたしの身体を受け止めてくれる。

    手に取った携帯電話の待ち受け画面で、アイドルたちが笑っている。

    その中に紛れているあたしの顔をじっと見つめる。

    変な顔。

    悩みなんかなさそうで、万能感に満ちあふれていて、世界のなにもかもが輝いて見えていそうな笑顔……。

    アドレス帳に指を走らせたのは、特に考えがあったわけではなかった。

    ふと昔を思い出したとか、そんな程度の動機だったのかもしれない。

    コール音が、1度、2度……。

    3度目で、ぷつりと回線が繋がる音がした。

    9 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:18:32 ID:MH5

    『もしもし、志希ちゃん?』


    「おはよーちひろさん、お久しぶりー」


    『久しぶり。……って、3月に会ったばかりじゃない。ちょうど良かった。あのね、プロデューサーさんがね』


    「プロデューサーって、今日は事務所にいるの?」


    数秒、スピーカーの向こうが沈黙した。

    なにかを探るような、ちひろさんの微かな吐息が聞こえてくる。

    別に困らせるつもりはなかったんだけどなー。

    10 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:18:53 ID:MH5

    『今日は朝から1日中、出ずっぱりよ。事務所に戻ってくるのは夜の、……6時か、7時くらいじゃないかしら?』


    「ん、りょーかーい。ありがとー、ちひろさん」


    『……私も今日は外回りのお手伝いなんだけれど、事務所には誰かしら志希ちゃんの知ってる顔がいると思うわよ』


    「……りょーかーい」

    11 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:19:50 ID:MH5

    回線が切れる。

    その余韻を抱きしめて、ベッドの上でごろりと寝返りをうつ。

    あたしを定義できるのはあたしだけ、だなんて自負はどこへ行ったのやら。

    いつのまにこんなに分かりやすくて、度し難い人間になってしまったのだろう。

    でも、電話を終えた今はそれほど悪い気分じゃない。

    がば、と起きあがってクローゼットの扉を開け放った。

    出来るだけ、あのころみたいな服装で……。

    まだ着られるだろうか? 色々とキツくないだろうか? 白衣は流石にやめておこうと思った。

    あれは文字通り、思い出だから。

    適当に何着か見繕ってから、あたしは次に洗面所へと足を向けた。

    チークは薄目に、リップは少し濃く。

    1度は降りた夢の舞台の入り口に再び赴くのだから、ちょっとくらいはあのころみたいにオンナノコらしくしていかないとね?

    12 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:20:41 ID:MH5

     ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


    受付で事務所の名前を言って、昔使っていた関係者証出したら、受付嬢さんは周囲の人が一斉に振り向くような黄色い声で「少々お待ちください!」と叫んで奥へ引っ込んでいった。

    やっぱりアポなしだと入れて貰えないよねー。

    今は関係者でもなんでもないんだし。

    随分確認に時間がかかっているなあと思っていたら、汗だくになった受付嬢さんが息も絶え絶えに戻ってきた。

    その手に持っているのは、サインペンと、……コピー用紙?

    13 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:21:59 ID:MH5

    「こ、これ、これしかなくて……。サ、サイン、ください!」


    うーん、あたしは別にいいんだけれど……。

    芸能事務所のセキュリティは、そんな感じでいいのかな?

    結局、二つ返事でロビーを通過して、ついこの間まで毎日のように押していたボタンでエレベーターを呼び出す。

    久方ぶりのエレベーターホールの匂いは全く変わっていなかったけれど、壁際に置かれている観葉植物の種類ががらりと変わっていて、時の流れを実感させられるにはそれで十分だった。

    途中で何人かのスタッフさんとすれ違ったけれど、誰もあたしを見てもなにも言わない。

    不審そうな視線も向けられない。

    まだまだ現役でもやれるってことかな、と嬉しくなる反面、誰もが足を止めたあのころとは違うんだな、と寂しくもなる。

    『アイドル部門』と標示された扉を開けると、懐かしい匂いが鼻腔いっぱいに広がった。

    ソファも椅子もあのころからまだ入れ替えられてないことが、すぐに分かる。

    14 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:22:44 ID:MH5

    「あ。……志希さん」


    来客用の椅子に座って読書をしていた、見慣れた顔が立ち上がってこちらを向いた。


    「んえー? あ、ホントだ。珍しい顔だ」


    机を挟んだ反対側のソファにだらしなく寝そべっている、もう1人もこちらに気付いたようだった。


    「やっほー。乃々ちゃん、杏ちゃん」

    15 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:24:49 ID:MH5

    「久しぶりだねー。どしたの? もしかしてアイドルデビューしたくなった? 杏の代わりに仕事に行く?」


    「久しぶりって言っても、3月に会ったばかりですけど……。どうしたんですか?」


    「ちょっとねー。2人はこれから仕事?」


    こんなやり取りはあの頃のままだ。

    なんだか嬉しくなって、思わず顔がほころんでしまう。


    「もりくぼは、ちひろさんが戻ってきてから雑誌の取材です……」


    「杏はラジオの収録終わって帰ってきたところー。もう今日は働きませーん」


    あたしのためにソファの半分を空けてくれた乃々ちゃんは、しゃんと背筋を伸ばしているせいかあのころよりもずっと大きくなって見えて、なんだかとてもイイ匂いがした。

    杏ちゃんも、『今日は』もう働かないだなんて。

    流石は未だに最前線を走り続けているだけはある。

    人間、変わるものだねえ。

    16 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:25:24 ID:MH5

    「で、どったの?」


    「なにがー?」


    「なにかあったんですか……。その、プロデューサーさんと」


    「……にゃははー。お見通しかー。演技のレッスン、しばらくやってないからなー」


    「いやー、志希はまだまだやれるよー。むしろ分かりやすかったのは……。まあ、その話はいいや。で、なにがあったの? 喧嘩でもした?」


    喧嘩……、そう。


    「喧嘩、したんだよねー」

    17 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:26:31 ID:MH5

    昨夜、プロデューサーは帰宅が遅かった。

    それは別に珍しいことじゃない。

    あたしが現役のころから事務所で寝泊まりした日も何度かあったことは知っていたし、そういう日はきちんと連絡を入れてくれる人だ。

    ただ。昨日は、昨日だけは早く帰ってきて欲しかった。

    昨日は大切な日。

    一ノ瀬志希がこの世に生まれ落ちた日。

    そして、あたしが一ノ瀬じゃない志希になった日。

    すっかり冷めてしまった夕飯を前に、日付が変わる直前に帰宅したプロデューサーに向かって、あたしは我慢できずに感情をぶちまけた。

    それからはもう、売り言葉に買い言葉。

    最後はあたしが座布団をプロデューサーの顔に投げつけて、寝室に閉じこもって終わった。

    結婚してから、初めて別々の部屋で寝た。

    そして朝起きたら、もうあの人は出勤した後だった……。

    18 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:27:22 ID:MH5

    「……惚気だねー」


    「惚気、ですね……。あの、志希さんの怒ってるのはよく分かる、んですけど」


    「どー考えても、たーだの、惚気、だよねー。いいんだよー、2人とも。あたしだってどうかしてたと思ってるんだから」


    まったく、以前の自分なら、こんなことで怒ったりなんてしなかったのに。

    こんな些末なこと、気に留めたりなどしなかったろうに。

    それが今では、どうしたことだろう。

    些細なことで戸惑って。

    物質同士は結びつこうとする。

    結びついて、安定しようとする。

    だというのに、あたしはどうだ。

    結びついて、変化して、かえって不安定になってしまっているよ?


    「……あの頃に戻れたらいいのに」


    19 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:28:22 ID:MH5

    「惚気、だねえー」


    杏ちゃんは、なんだかすこぶる楽しそうに笑って起きあがった。

    枕代わりになっていたウサギが床に落ちる。

    まだ現役だったんだ、そのウサギ。


    「戻りたいならさ、試しに戻ってみたらどう?」


    「そうですね……。あの頃の志希さんといえば、……失踪、してみるとか」


    失踪、かあ。

    乃々ちゃんに言われて、目から鱗が落ちたような思いがした。

    そういえば昨夜から、失踪だなんて1度も思いつきもしなかった。

    それはきっと、あたしが自分の居場所を見つけてしまったから。

    アイドルだったころはあんなに『あなたを夢中にさせて、勝手にいなくなってしまうよ』なーんて、他ならぬあたし自身が歌っていたというのに。

    20 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:29:05 ID:MH5

    「ね、2人とも。一緒に逃げてよ。逃避行ってやつ」


    乃々ちゃんと杏ちゃんは目を丸くした。

    以前は誰よりも真っ先に逃げ出しそうだった2人は、けれど首を縦には振らなかった。


    「み、魅力的な提案なんですけど……」


    「残念だけど、杏たちはまだこっち側に居場所があるからねー」


    ホント、人間って変わるものだねえ。

    いや、むしろ変わらずにいられているということだろうか。

    銀幕で、舞台で、未だに最前線を走り続けている2人は、もうすっかりあたしとは違う世界の住人になってしまっている。

    21 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:29:28 ID:MH5

    「2人とも、偉いねえー。あたしなんか……」


    「それは違うと思います……。志希さんは、きっちりとファンの皆さんに向かって区切りをつけて、引退したんですから。……引退ライブじゃなくて、失踪ライブになってましたけど」


    「そうそう。そうだよ。アイドルの一ノ瀬志希は引退したわけじゃなくて無期限失踪中なんだからさ、ちょっとくらいなら戻ってきてもいいんじゃないの? こっち側に、さ」

    22 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:30:34 ID:MH5

    そういえばそうだったな、とあたしは記憶を辿る。

    引退します! と叫ぼうと決めたあの日、あの舞台の上で。

    いつもよりもずっと眩しく感じたスポットライトを浴びて、いつもよりもずっと煌びやかに見えたコンサートライトを前にして。

    未練、後悔、名残。

    名前はよく分からないけれど、感情とかいう大脳皮質のノイズが発した衝動に突き飛ばされて、あたしはぼろぼろ涙を流しながら、台本になんてこれっぽっちも書かれていなかった言葉を土壇場で絶叫したのだ。


    『一ノ瀬志希は、失踪するよ!』


    前代未聞の変なヤツ、だったと思う。

    でも、そうだったね。

    こうしてアイドル事務所に紛れ込むこともできたし、一ノ瀬志希は、まだ引退してはいないのだ。

    なら、アイドルだったころらしく行動しよう。

    居場所もなにもかも一旦かなぐり捨てて、今日は失踪趣味のジーニアスに戻ってみよう。

    お城の悪い魔法使いに、カラダもココロも、苗字さえも改造されてしまう前のあたしに。

    23 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:31:02 ID:MH5

    「ありがと、2人とも。お仕事頑張ってね」


    「おー。お土産よろしくねー」


    「お、おすすめの森でよければ教えてあげますけど……」


    森かあ。

    都会の喧噪から離れて、ヒノキオール、クリプトメリオール、リモネン……。

    木々の精油成分に囲まれて過ごすのも悪くない。


    「ありがとねー、乃々ちゃん。でもね、あたし海に行こうと思うんだー」

    24 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:31:28 ID:MH5

     ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


    「どう思う? 乃々」


    「ど、どうって……」


    「あれはやばいね」


    「やばいんですかね……。もりくぼにはよく分からないんですけど」


    「最上級の惚気だね。本人にとっては真剣なんだろうけど。いやーすごいね。変わるもんだね。なにもかも俯瞰して理解して、達観してたようだった、あの志希がねー」


    「で、でも。良かったです。プロデューサーが朝、あんなだった理由が分かって」


    「あー、この世の終わりみたいな顔してたもんねー。今日はプロデューサー、戻りが遅いんだったよね」


    「1日中、きらりさんとほたるさんの付き添い、だったと思います……。今度の、映画の」


    「あー、あの2人が一緒ならプロデューサーの不調はなんとかしてくれるでしょ。特にほたるは気遣い上手だし。しょうがない、面倒だけど失踪の手伝いしてやるかー」

    25 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:32:33 ID:MH5

     ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


    事務所を出てからまっすぐ東京駅に向かって、1番最初に発車する新幹線に乗った。

    西へと向かう車両だった。

    それにしても。

    自分の言葉を反芻して、おかしくなる。

    海に向かう、だなんて。

    目的地を設けるなんて、すっかり失踪の仕方を忘れてしまっていることに気付いて、思わず笑ってしまう。

    『どこかに行っちゃうのが失踪、どこかに行くのは移動か旅』というのは、……どちらさまの言葉だったかな。

    車両が動き始めてすぐに、眠ってしまおうと思って目を閉じた。

    次に目が覚めたら、その駅で降りよう。

    そこから海を目指そう。

    瀬戸内海? 日本海? 太平洋?

    しばらく規則正しい揺れを感じているうちに、いつの間にか寝入ってしまっていた。

    引退、もとい無期限失踪したときの話を久し振りにしたせいか、舞台に立っている夢を見た。

    26 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:33:22 ID:MH5

    ――あたしは眩しいライトと歓声の下で、すっかりアイドルを辞めて久しい格好をして立っていた。

    その服装は華やかな舞台に比べるとなんだかひどく不釣り合いで、喩えるなら、急患のために医者を求める声に居合わせてしまった眼科医のような気持ちになった。

    舞台袖から、プロデューサーがあたしを迎えに来る。

    いつものように、よくやったと労いの言葉を添えて。

    あたしも笑顔で駆け寄った。

    ハイタッチでもしてやろうと思って挙げた右手が、しかし思いとは裏腹に空を切る。

    あれ?

    プロデューサーが、あたしの横を素通りしていく。

    まるで、あたしなんて見えていないかのように。

    27 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:33:58 ID:MH5

    どうして、と憤りながら振り返ったら、あたしの背後でプロデューサーと誰かがハイタッチしている。

    きらきら輝く汗、まるで太陽のような笑顔。

    そこに立っているのは、髪をツーサイドアップにして、白衣をモチーフにしたアイドルの衣装を着た、あたし。

    あたしはここにいるよ?

    伸ばした手を嘲るように、あたしに向かってあたしが意地悪く笑う。

    28 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:34:17 ID:MH5

    『違うよ?』


    『あなたはもうアイドルじゃない。あなたはもう、イチノセシキじゃないでしょ?』

    29 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:34:58 ID:MH5

    そこで目を覚ました。

    ひょっとすると、なにか叫んでしまっていたかもしれない。

    眠気なんてどこへやら、心臓は早鐘を打ち、肺は荒々しく酸素を求める。

    ……ひどい夢。怖い夢。

    ものすごく嫌な汗が背中に滲んで、座席の背もたれから感じる不快指数がみるみる上昇していく。

    ちょうど新幹線はどこか名前も知らない地方都市を横目に通り過ぎて、山間へと差し掛かろうとしているところだった。

    30 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:36:10 ID:MH5

    本当に嫌な夢。

    降って湧いたようなそれは、あたしの中の疑念。

    プロデューサーが愛してくれたのは、あたしじゃなくて『アイドルの一ノ瀬志希』だったんじゃないのかという、恐怖。

    あなたを縛って、あなたを魅了して、ありのままを求めて変化することを恐れないあたし。

    少しでも目を離したら音もなく消えてしまうよ? と耳元で囁く、強くて儚くて蠱惑的な、あたし。

    でもそれは、今のあたしとはまったく違う。

    アイドルとしての、一ノ瀬志希。

    ……バカみたい。

    あたしはわざと大きく溜め息をついた。

    以前のあたしなら、他人からどう思われていようが気にも留めなかったろうに。

    あたし自身があたしをきちんと定義できてさえいれば、それで良かったはずなのに。

    今のあたしは。

    あなたに愛されて、あなたを愛してしまって、不可逆的に作り替えられてしまって、変わることを恐れるようになってしまった。

    もう元には戻れなくなってしまった。

    31 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:37:03 ID:MH5

    手元の電話のランプが点滅していることに気付いた。

    画面には、プロデューサーからの不在着信と留守番電話が、1件ずつ。

    車内アナウンスが、次の停車駅が近づいたことを知らせ始めた。


    『広島、広島』


    もうそんなところまで来ていたのか。

    随分と深く寝入ってしまっていたらしい。

    足早に自席へと戻っていく女の人が通路を通り過ぎて行って、少しキツめの香りがそれを追っていく。

    それに気を取られて、携帯電話はそのままポケットにしまった。

    そういえば、オンナノコだったころらしくと意気込んで身支度をしたのに、今日は香水もつけてこなかったな、と思った。

    32 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:37:28 ID:MH5

    広島駅で新幹線を降りて、見上げた電光掲示板にずらりと並んだ時刻表のうち、1番最初に出る電車に乗り換えた。

    普段は見慣れない、黄色い色をした四角い車両。

    『岩国行』と標示されている。

    今度は終点まで行こう。

    33 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:38:18 ID:MH5

    ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


    潮風に焼かれた甍の波を横目に、あたしを乗せた4両編成の電車は走り続けた。

    車窓は少しずつ茜色に染まりはじめて、時折、民家や踏切の向こうに狭い海が見える。

    車内は少しずつ夕暮れに塗り替えられつつあったけれど、見上げた空はまだ薄ぼんやりと青く、それと交わる海は濁ったように黒く見えた。

    海坊主のように見える島影の向こうにある波の下の都には、一足早く夜が訪れているのかもしれない。

    扉が開くたびに、乗客と一緒に暖かい風が出入りする。

    少しだけ混じっている海の香りに、あたしは目を細めた。

    駅の広告には知らない町の名前と知らない市内局番が並んでいる。

    駅の名前すら一見しただけでは読めないこともあって、なんだかおかしい。

    本当に、知らない世界に来たことを実感する。

    34 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:39:19 ID:MH5

    ちょうど17時に、終点の岩国駅についた。

    もう足下にまで夕暮れが迫ってきているけれど、なんだか東京よりもずっと視界は明るかった。

    海が近いからなのかもしれないし、ひょっとすると東京よりもここは季節が早いのかもしれない。

    部活のユニホームを着た男の子の集団や、読書を終えて乗り換えの車両に向かうセーラー服の女の子の間を縫って、あたしは改札口を抜ける。

    近くにホテルなどあればいいな。

    どこに行こうか。

    この辺りにはなにがあるのだろう。

    試しに海まで歩いてみようか。

    駅舎を出て降り立った駅前には、数台のタクシーが客待ちをしていた。

    バス停の時刻表を見ても、どの乗り場がどの路線で、どこに向かっているかなんてさっぱりだ。

    ここまで来たときと同じように、最初に来たバスに乗ろうかと思って、あたしはきょろきょろと周囲を見回しながら時間潰しの材料を探した。

    35 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:39:50 ID:MH5

    バスターミナルの端で花壇の縁石に座って、女の子がギターを弾きながら歌っていた。

    あかんべえをした髑髏が描かれた白いシャツと、カーキ色のジーンズ。

    女の子が息を大きく息を吸い込むたびに、長い髪の毛が金色に波打つ。

    場所が悪いのか時間が悪いのか、聴衆は誰もいない。

    36 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:40:05 ID:MH5

    歌っているのは、あたしの曲だった。

    引退する直前に出した、一ノ瀬志希の、最後のシングル。

    37 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:40:50 ID:MH5

    たった1人のステージで歌っているアーティストの前で足を止めた。

    アイドルだったころに自分の曲をカバーしてもらったことは何度かあったけれど、誰かがこうして歌っているのを聞くのは、もしかしたら初めてかもしれなかった。

    風向きが変わって、海の匂いがしなくなった。

    代わりにすぐそばにやってきたのは、むせかえるような夏の気配。

    もう少ししたら、彼女が座っている花壇にずらりと並んだ向日葵が、揃って空を見上げるのだろう。

    ぶうぶうと不満そうに排ガスを吐き出しながら、タクシーが背後を通り過ぎていく音がする。

    そろそろ次の電車がやってくる時間なのか、あたしたちのいる場所とは反対側にある階段の入り口に、ぽつぽつと人影が吸い込まれていく。

    38 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:41:18 ID:MH5

    ジャーン、と勢いよく弦を弾いて、女の子は演奏を終えた。

    ぱちぱちぱち、と拍手をする。

    今にも落ちてきそうな黄昏色の空に飲み込まれていった、たった1人分の喝采を、たった1人の演者はどう思ったのだろう。

    女の子はなんだか怒ったような不思議な表情をして、ぺこりと大きくお辞儀をした。

    39 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:41:48 ID:MH5

    「もう店じまい?」


    楽器を片づけようと革のギターケースに手を伸ばした女の子に問うた。

    女の子は、こちらを見ずに返事をする。

    金色の髪の隙間に、きらりと耳飾りの輝きが見えた。

    オレンジ色をしたそれは……。

    太陽? 向日葵?

    40 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:42:30 ID:MH5

    「ええ、これから仕事なんで」


    「ふーん、忙しいんだ。ね、もう1曲歌ってよ」


    さっきとはまた違った不思議な表情で、女の子はあたしの方を見た。

    初めて目があった気がする。

    両の瞳はさっきまで車窓から見ていた瀬戸内海よりも黒い色をしていて、小さなレンズに映ったあたしの思わせぶりな笑顔が2つ、こちらをじっと見つめていた。


    「……いいですよ。なにがええですか? 言っときますけど、そんなにレパートリー多くないですよ」


    「んー、じゃあねえ……。『PROUST EFFECT』って曲、知ってる?」

    41 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:43:04 ID:MH5

    「うわあ」と女の子は破顔した。

    ぱっとあたしたちの周りに夕日が差して、バスターミナルの気温が少しばかり上昇したかのようだった。

    とても嬉しそうに笑う、まさに向日葵みたいな笑顔の子だな、と思った。

    42 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:43:49 ID:MH5

    「またすっごい難しいヤツですね。自分のアレンジ効きまくっちょるんですけれど、大丈夫ですか?」


    「おっけーおっけー。ていうか、弾けるの? すごいね」


    なんだか得意そうに鼻を鳴らして、女の子は立ち上がった。

    フクシャ色のギターが夕日を反射して、塩基性のフェノールフタレイン溶液のように鮮やかに輝く。

    ジャーン、ジャカジャカと準備体操が始まる。

    少し泥のついた黒いブーツが、石畳を叩いてリズムを取り始める。

    停留所の柵にもたれ掛かって、あたしは興奮に打ち震えている空気をゆっくりと吸い込んだ。

    女の子は大きな大きな深呼吸をしてから、細い指を勢いよく踊らせ始めた。

    43 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:44:19 ID:MH5

     対象を観察 くまなく隅々まで逃さない。ねえ?
     ワタシの存在 キミに投与するよ。感じて!


    最初はあたしも鼻歌を口ずさんで、その旋律を追っていただけだった。

    とても楽しそうに髪を揺らして、汗を散らして歌う女の子の邪魔をするのは野暮だと思った。

    だけど。

    44 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:44:51 ID:MH5

     いつまでも どこまでも
     キミを縛って 今を繋いで
     もっともっと、強く!


    気付くとあたしの声もどんどん大きくなっていた。

    途中から女の子も気付いたのか、とても驚いたように目を丸くし、だけどとても嬉しそうに負けじと声を張り上げる。

    誰もそばを通らないのが幸いだった。

    見知らぬ街の見知らぬ駅前で、見知らぬ女の子と一緒に、あたしは一ノ瀬志希の曲を歌った。

    45 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:45:36 ID:MH5

     ……好き、でしょ?


    最後に2人分の声がぴたりと合わさる。

    重力なんて置き去りにしてしまったかのように、女の子の身体が弦の音とともに大きく跳ねる。

    あたしは一気に滝のような汗を流していた。

    女の子も演奏を終えて、大きく肩で息をしていた。

    最後の余韻が風に吹き消されてしまってから、あたしたちは「いえーい!」と叫んで勢いよくハイタッチをした。

    女の子の掌はすべすべしていて冷たくて、だけどぶつけたあたしの手には星が爆発したときのような熱が伝わってきた。

    ふうう、と女の子が大きく息を吐き出して地面に座り込む。

    46 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:46:08 ID:MH5

    「お姉さん、この辺の人なん?」


    「んーん、違うよ。あたし今、旅行中。……もとい、失踪中なんだー」


    女の子は、「へええ」とまた嬉しそうに笑った。

    拭った額に浮かんだ汗が、真珠か夜空の星のように煌めいている。

    47 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:46:51 ID:MH5

    「本当に一ノ瀬志希みたいだ。ね、良かったらこれから1杯付き合ってくださいよ。奢りますよ。自分の働いてるお店なんです。もちろん、怪しいお店とちゃいますよ? ただの飲み屋です。ちいと汚いけど」


    どうしたものかな。

    どうせ行くあてもなかったし。

    あたしをじっと見つめる女の子は、まるで飼い主を待ちかまえる犬みたい。

    しっぽの代わりに、金色の髪が左右にふわふわと揺れ動いている。


    「ほんとー?  じゃあ、ごちになっちゃおうっかなー」


    「っしゃあ!」と女の子は大きくガッツポーズをした。

    あたしの内心も大いに浮かれていた。

    あたしなんかよりも、この子はずっと一ノ瀬志希のことが好きなんだろう。

    嬉しいような、少し悲しいような、なんだか複雑な気持ちだった。

    48 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:47:32 ID:MH5

    ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


    思っていたよりは全然汚くないけれど、思っていたよりもずっと狭い居酒屋の1番奥の席に座って、あたしは頭にタオルを巻いて店内をくるくると回っている女の子の後ろ姿を眺めていた。

    板張りの壁にはメニューや運転代行の連絡先や周辺の地図に混じって、見たこともないマッチョのサイン入りの写真と、なぜか5年も前のカレンダーが貼られていた。

    店に入ったときにはあたしの他に何人かいた客は1人2人と出て行って、しばらくすると店内にいるのは女の子と店長さんとあたしだけになっていた。

    49 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:48:06 ID:MH5

    「お待たせ! しましたぁ!」


    頭のタオルを取って、並々とビールの入ったジョッキを持って、女の子があたしの向かいに勢いよく座る。

    駅前にいたときよりもずっと強い汗の匂いが、あたしの脳幹をぐらぐらと揺さぶる。

    ニコチンが染み着いた蛍光灯のせいか、調理の煙のせいか、なんだか視界が黄色く染まって見える。

    煙草やアルコールの匂いも容赦なく混じって、ちょっと、この空間はあたしには刺激的すぎるかなー?

    50 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:48:39 ID:MH5

    「お姉ちゃん、ちょっと早い帰省かなんかなんか?」


    カウンターの向こうから、真っ黒に日焼けした店長さんの岩のような顔が覗いた。


    「んーんー、根無し草ー」


    あたしの答えに、店長さんは年齢不詳の深い皺をますます深くして唸る。


    「そうかあ。そねえな人が多いなあ。最近は特になあ」


    「もー、おっちゃん! 難しい話は今日はなし! ほら、お姉さん! かんっぱーい!」

    51 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:49:08 ID:MH5

    ガキンと景気のいい音をたててぶつかったジョッキを、女の子はびっくりするくらいの勢いで飲み干した。

    信じられない飲みっぷり……。

    海育ちの人って、やっぱりなにかが根本的に違うんだろうか。

    ADHとALDHの働き、とか……。

    52 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:49:47 ID:MH5

    「ね、好きなの? 一ノ瀬志希のこと」


    真っ赤な顔をした女の子は、カウンターに向かって「お代わり!」と叫んでから、それまでの勢いを急に潜めて、こくりと小さく頷いた。


    「ファンなんです。あの人の。もう辞めちゃったけど、芸能界。羨ましい。自分も、あの人みたいになりたいんです」


    「そうなの? アイドルなりたいの?」


    キミなら紹介したら多分、1発だよ? と言いそうになったのをぐっと堪えた。

    女の子はというと、にへらと笑って右手をひらひらと振っている。

    53 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:50:36 ID:MH5

    「えーと、そういうのじゃのうて。自分も、いなくなりたいんですよね。ここから」


    「また言いよるんか」とビールジョッキとだし巻き卵を机に置いた店長さんが憤慨している。

    女の子も、ぷいと赤らめた顔を背けた。

    店長さんは呆れ返ったような顔をして、あたしに向かって笑いかけた。


    「こいつね、わしの姪っ子なんじゃ。こねえななりをしちょるけれど、こんねきじゃあちいと名の通った、なんちゅうか、大きな家の生まれの子なんじゃわ。他に兄弟もおらんけえ、こいつが跡継ぎせにゃあいけんのじゃけどね」


    「自分は、いややの! たまたま網元に生まれたからいうて、よく知りもせん人と結婚させられて、ずっとあんなところで暮らし続けるのなんて、まっぴら! おっちゃんか、とし兄が継いでくれたらいいんよ。あんな家」


    「そうもいかんわ。田舎のことじゃけえのお。悪いねえ、お姉ちゃん。お客さんにつまらん話を聞かせて」

    54 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:51:11 ID:MH5

    あたしは黙って首を横に振って、ジョッキを口に運んだ。

    あんまりビールは得意じゃないけれど、なんだか今日のは、特に苦い。

    きゅうりをひょいひょいと口に運んでいる女の子は不機嫌そうに壁の方を見つめていて、その背後に貼られている栄養ドリンクのポスターの中の、色あせた女優さんの笑顔と目があった。

    55 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:51:55 ID:MH5

    「ね、訊いてもいい? あんなところってさ、どんなところなの?」


    女の子はちらりとあたしの方を上目遣いで見て、それから机に突っ伏すようにして大きな溜め息をついた。

    もう2杯目のジョッキも空になろうとしているのに、あたしの頬に届いた彼女の吐息からはアルコールの残り香はまったくしなかった。

    それよりも、スーパーの鮮魚コーナーのような。

    そう、濃厚な、海辺の漁港の匂いが鼻孔をくすぐった。


    「どんなって、なーんにもないところ、です。ここからもうちょっと行ったところにある、島。小さな島です」

    56 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:53:09 ID:MH5

    島かあ。

    訊いておいてなんだけれど、思った通りの答えだった。

    彼女から感じるこの匂いはきっと、名前も知らない、地図に載っていることにも気付いたことのない島の匂いなのだろう。

    朝目覚めたときだったり、お昼ご飯の用意をしているときだったり、夕方に家の手前の路地を曲がったときだったり、寝入りばなに夜風を浴びようと窓を少し開けたときに感じる、静かな瀬戸内海の匂いなんだろう。

    57 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:54:32 ID:MH5

    「島の人は、うちがどんな家かってみんな知ってるし、大島の人たちだってそう。漁師さんって、信じられないくらい横で繋がってるんですよね。

    嫌になっちゃう。自分、誰も自分のことを知らないところに行きたいんです。この街か、広島か、大阪か。それとも、東京か……。

    外国でも良いかも。だから、今お金を貯めてるところなんです」

    58 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:55:31 ID:MH5

    机に揚げ出し豆腐が置かれた。

    注文してないのに、と思って見上げたら、店長さんが「サービスじゃ」と年老いた亀みたいに顔をくしゃくしゃにして笑った。


    「ナツホよお。寂しいことを言いんさんなや。自分のことを誰も知らんところで暮らす、なんてなあ。つまらんよ」


    「ええの! お姉さんだって、そうでしょう?

    どこから来はったんか知らないけど、こんななーんもないところに旅行に来てるってことは、自分の気持ち、分かってくれるはずじゃもん。

    お姉さんだって、一ノ瀬志希のファンだし、あんなに『PROUST EFFECT』歌ってくれよったし。

    旅行って、いつもの生活からちょっとだけ逃げたくなったときにするもんじゃないですか。自分はそれを、もうちょっと大がかりに、やりたいだけ!」

    59 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:56:10 ID:MH5

    あたしは相づちを打って、力なく笑った。

    お酒のせいか、目も唇もからからに乾いていた。

    やっぱり、あたしのこれは、失踪じゃなくて旅行なんだな。


    「自分のことは、自分だけが分かってたらいいんだから……」


    ナツホちゃんは誰かに言い聞かせるようにそう呟いて、残っていたビールを一気に飲み干す。

    もう1度「お代わり!」と突き出したジョッキを、店長さんがひったくるようにして奪い取った。


    「勢いよう飲み過ぎじゃ。次はお茶にでもしちょきんさい。お姉ちゃんも一緒でええね?」

    60 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:56:50 ID:MH5

    ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


    それから1時間ほど笑って、飲んで、食べて、とりとめもないことを語り合った。

    一ノ瀬志希の話もした。

    ナツホちゃんが初めて買ったアイドルのCDが『PROUST EFFECT』で、それで当時高校生だったナツホちゃんの世界はひっくり返ったのだ、と懐かしそうに彼女は笑った。

    あたしは背筋がなんだかむずがゆくなって、ごまかすかのように揚げ出し豆腐を摘む手を早めた。

    61 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:57:30 ID:MH5

    いざお会計となったとき、ナツホちゃんはあたしに向かって思い切り頭を下げて、「武士の情けで、店の外に出ていてもらえませんか」と言った。

    目を白黒させながら放り出された店の外はすっかり夜で満ちていて、市街地の明かりで星空はぼんやりと霞んで見えた。

    ぴしゃりと閉められたガラス戸の向こうで、ナツホちゃんが店長さんとなにやら話をしている。

    うっすらと映った影が、何度もお辞儀をするかのように折れ曲がっているのが分かる。

    なんとなく、あたしにも事情は飲み込めた。

    悪いことしたなあ、とあたしは財布の残高を思い浮かべる。

    余裕はあるのだけれど、お金を出すと言ったら、きっとナツホちゃんは怒るのだろうな。

    62 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:58:01 ID:MH5

    ポケットから携帯電話を取り出す。

    画面は、新幹線の中で見たときのままだった。

    1件の不在着信と、1件の留守番メッセージ。

    留守番電話のアイコンを押して、携帯電話を耳に当てた。

    女の人の合成音声と、ピーッという甲高い合図。

    それから数秒、吐息のような音がしてから、プロデューサーの声が一言だけ入っていた。

    63 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:58:27 ID:MH5

    『ごめん』


    それだけ言って、メッセージは途切れた。

    十分だった。

    あたしの胸の中は、びっくりするくらいに晴れ渡っていた。

    プロデューサーには本当に悪いことをしたと思う。

    まさに台風一過のように、昨夜に荒ぶった爆弾低気圧のような心模様は、嘘のように凪いでいた。

    64 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:58:49 ID:MH5

    店のガラス戸が音を立てて開いて、ナツホちゃんがちょっぴり覚束ない足取りで出てくる。

    携帯電話をポケットに戻す。

    「また来なさんせ」と送り出してくれた店長さんにお礼を言って手を振って、あたしたちは夏には少し早い夜空の下を歩き始めた。

    65 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)20:59:48 ID:MH5

    「大事な人からですか?」


    「え?」


    ナツホちゃんは「電話」と呟いて頭を掻いた。

    太陽の光がなくても、流れるような髪は神話の造形のような金色に輝いていた。


    「なんか、そんな顔してました。お姉さん。優しい顔」


    そうかあ……。

    大事な人、か。

    うん、そうかも。


    「そうだよ。大事な人」


    夜空を見上げて、小さく笑った。

    オリオンはもう天球にいない。

    彼を追うアンタレスの姿もまだ見えない。

    空に輝いているのは、レグルス、スピカ……。

    双子座は、どこだろう。ちょっと分かんないなー。

    66 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)21:00:34 ID:MH5

    「あたしもね、時々は思うんだ。もう飽きちゃった、次はなにをしよう、1度真っ白にしちゃえ、って……。

    キミの気持ちとは、ちょっと違うんだけどね。どんなに変わってしまっても大丈夫、あたしのことはあたしがきちんと分かってさえいれば。……って」


    少し離れた大通りを車が行き交う音も、ここにはまったく届かない。

    路地に響いているのは2人分の足音と、かすかに吹くじめっとした風が囁く声だけ。


    「でもね、やっぱり戻りたくなっちゃうんだ。あたしのことを分かってくれる人たちのところに。

    あたしをあたしと定義してくれる人のところに……。そういうの、自分の居場所っていうのかな?」

    67 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)21:01:32 ID:MH5

    「……でも」


    立ち止まったナツホちゃんの少し不満そうな声色が、あたしの背中を軽く突いた。

    あたしは振り返って笑う。

    ずっと遠くで瞬いて見える、花火みたいな変なネオンはなんだろう。

    パチンコ? スーパー銭湯?


    「うまく言えないんですけど。自分自身がなりたい自分と、その人たちが自分に求める自分が全然違うときは、お姉さんはどうするんですか?

    それでも、逃げてしまったりしないんですか?」


    そのときは。……うーん。

    プロデューサーが求めるあたしと、今のあたしが違っていたら。

    それはとても怖い。

    今のあたしはプロデューサーに見初められたときのジーニアス、シキ・イチノセでもないし、プロデューサーに飾られたアイドル、一ノ瀬志希でもない……。

    でも、それでも。

    68 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)21:02:07 ID:MH5

    「あたしは、なっちゃってもいいかなって思っちゃう。あたしが定義するあたし自身じゃなくて、その人に定義される、あたしってやつに……」


    こんなことを考えてしまうあたしは、やっぱりどこかおかしくなっちゃっている。

    もちろんそれは、あの人のせい。

    常に変化を受け入れて、安定するということを嫌って、自分が自分で居続ける必要なんてない、あたしがあたしを見据えてさえいればそれで良い、と自信満々に胸を張っていたあのころのあたしには、もう戻れない。

    69 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)21:02:49 ID:MH5

    「……自分にも、いつか見つかりますかね。そんな居場所」


    「見つかるといいね。大丈夫だよ、きっとね」


    わしわし、とナツホちゃんは落ち着かない様子で頭を掻いて、それから努めて明るい声を出した。

    あたしの身体に勢いよくぶつかったその振動は、寝静まりつつある街を震わせ、音叉を叩いたようにあたしの中で反響して、波打つ。


    「なんか、湿っぽくなっちゃいましたね。今日はどこで泊まる予定なんですか? 送って行きますよ!」


    言われてようやく、大きな大きな忘れ物に気付いて、あたしは小さく声を上げて、それから照れ隠しのように笑った。


    「あー、宿取ってないんだー。あははー。駅前のホテルに飛び込むよ。観光シーズンでもないし、空いてるでしょ」

    70 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)21:03:21 ID:MH5

    ナツホちゃんの顔色がさっと変わったのが分かった。

    なにかを思案するかのようにごにょごにょと呟いて、それから意を決したように大きな声で「じゃあ!」と彼女は叫んだ。

    寝ぼけたカラスが、ぎゃあと驚いた声をあげて屋根の上から飛び上がる音がする。


    「あの、うち来てくださいよ。ちょっと狭いけど、1人が1泊するくらいなら大丈夫ですし! 布団もお風呂も綺麗にしてますし! もっとお姉さんの話、聞かせてほしいし!」

    71 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)21:03:49 ID:MH5

    「んー、ほんとにいいの?」


    思わせぶりに笑ったけれど、あたしの内心はとっくに決まっていた。

    もっと話を聞かせてほしい。

    それはこっちの台詞だよ。

    あたしももっと聞かせてほしい。

    アイドルの一ノ瀬志希の話を。

    それを見て、感じて、変化しようとしているあなたのことを。

    72 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)21:04:13 ID:MH5

    「じゃあ、お言葉に甘えようかなー」


    何度目かの大きなガッツポーズをして、ナツホちゃんは意気揚々と歩き出した。

    と思ったらぴたりと足を止めて、おそるおそると言った風に振り返った。

    今度は叱られる前の柴犬みたいで、つくづく犬っぽい子だなあと思う。

    73 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)21:04:41 ID:MH5

    「あの、それで。自分、ナツホっていうんですけど。真夏のナツに、帆船のホ。お姉さんの、……名前」

    74 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)21:05:05 ID:MH5

    「……シキだよ」


    ナツホちゃんは目をまん丸にして、それから堪えきれなくなったのか勢いよく吹き出した。


    「ちなみに、苗字は?」


    「ざーんねん。一ノ瀬じゃないんだ。――だよ。変な苗字でしょ?」


    「変というか。……珍しいですね。この辺ではあんまり聞かない苗字ですね。へえー。シキさん、シキさんかあ。ふふ、なんだか嬉しくなっちゃうなあ」


    「んふふ、苗字も名前もお気に入りなんだー」

    75 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)21:06:05 ID:MH5

    行進するかのように背筋を伸ばして両手を振って、あたしたちは夜道を明日に向かって歩き始めた。

    途中で少しだけ歩幅を縮めて、あたしはさりげなくナツホちゃんの後ろに回る。

    彼女を見失わない程度に少し距離を置いて、あたしはポケットから携帯電話を取り出す。

    不在着信の1番上の履歴を押して、リダイヤル。

    画面の中で、プロデューサーの名前が点滅し始める。

    耳元で、コール。

    コール。

    コール。

    応答はない。

    出ないだろうという予感があった。

    出ないでほしいと願っていた。

    76 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)21:06:35 ID:MH5

    ぷつりと音がして、留守番電話サーボスに繋がる。

    自動音声の女の人がプロデューサーに代わって不在を詫びて、発信音の後にメッセージを入れてほしいとお願いしてくる。

    囁くように、声を吹き込む。

    努めて、アイドルの一ノ瀬志希らしくないように。

    見知らぬ夜の街を揚々と歩く、旧姓・一ノ瀬志希らしく。

    77 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)21:06:58 ID:MH5

    「ごめんね」


    「……ただいま」

    78 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)21:07:15 ID:MH5

    まだ留守番テープの時間はありそう。

    一瞬だけ躊躇して、それから最後の一言を呟く。


    「……好きだよ」

    79 : ◆vOwUmN9Rng : 2018/12/27(木)21:08:55 ID:MH5
    おしまい。志希にゃん幸せを掴んでくれ。

    80 : 名無しさん@おーぷん : 2018/12/27(木)23:46:53 ID:ZNI

    良かったよ




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